
2025年4月、経済産業省が発表した「取締役会5原則」。その中にある「価値創造ストーリーの構築」という一文が、経営に新たな視点を投げかけています。企業はなぜ「ストーリー」を語るべきなのか?そして、それはどのようにして組織の稼ぐ力へとつながるのか──本ブログでは、その本質を探ります。
導入編:企業の成長戦略に“ストーリー”が求められる時代
経済産業省は、2025年4月30日付で、企業の取締役会がその機能を十分に発揮し、企業の「稼ぐ力」を高めていくために踏まえるべき指針として、「取締役会5原則」を発表しました。この原則では、中長期的な成長戦略の構築や、適切なリスクを取ることで成長を実現する投資を促すことなどが掲げられています。企業の持続的な価値創造に向けて、取締役会の機能を一層高めることが目的です。
この「5原則」には、以下の5つの柱が挙げられています。
1.価値創造ストーリーの構築
2.適切なリスクテイクの後押し
3.中長期目線の経営
4.適切な意思決定過程と体制の確保
5.最高経営責任者(CEO)の指名・報酬の実効性の確保
これらは単なる原則ではなく、企業が今後の時代を見据えて競争力を高め、持続的に成長していくための「行動の指針」として理解すべきものです。特に、「中長期的かつ持続的な収益性・資本効率の向上」が企業の稼ぐ力の向上には欠かせないとの立場から、経済産業省は、事業ポートフォリオの見直しや成長投資を前提とした戦略の再構築を求めています。もちろん、企業にとって「稼ぐ力を高めること」が重要であることに異論はないでしょう。ただ、ここで大切なのは「それをどのように実現するか(HOW)」という点です。WHAT(何を)ではなく、HOW(どのように)が問われているのです。そしてその方法論は、業種や事業環境によって異なるにせよ、経済産業省は共通的な行動原則として、5つのHOW=5原則を示したと理解することができます。
その中でも特に注目したいのが「原則1:価値創造ストーリーの構築」です。この「ストーリー」という言葉、私たちの日常では親しみのある表現ですが、ビジネスの現場においてはあまり馴染みのない響きかもしれません。しかし海外では、ストーリーテリングの手法が企業の成長戦略や差別化された取り組みを伝えるための有力なツールとして広く活用されており、顧客や投資家へのPRにも積極的に取り入れられています。たとえば、新興企業がIPO(株式上場)を目指す際に、投資家に自社の将来性やビジネスの魅力を説明する枠組みとして用いられる「エクイティ・ストーリー」はその一例です。現在のビジネスモデルから今後の成長のステップ、さらにはビジョンに至るまでを、物語として描き出すことで、関係者の理解と共感を得ることができます。
今回は、こうしたストーリーを、新興企業に限らず、規模や歴史を問わず全ての企業に対して構築するよう求めている点が非常に興味深いと感じました。そこで次のパートでは、この「価値創造ストーリー」とは一体どういうものなのか、そしてなぜ今それが求められているのかを、私なりの視点で掘り下げてみたいと思います。
価値創造ストーリーとは何か? ~企業の「物語」を言語化するという視点~
経済産業省が発表した「取締役会5原則」の中でも、とりわけ異彩を放っているのが、「価値創造ストーリーの構築」という表現です。これは、他の原則に比べて、どこか抽象的で文学的な響きを持っており、一般的な経営用語の枠をやや越えた印象すらあります。しかし、この一見ユニークな表現には、企業経営のあり方に対する本質的な転換が込められていると感じています。
ここでいう「ストーリー」とは、単なる美辞麗句や企業紹介の文章ではありません。企業がどのようにして価値を創出し、その価値をどのように社会や顧客に届け、さらに将来に向けてどのような成長を目指しているのか——こうした企業の全体像を、一本の筋道の通った「言葉の構造」として描き出すものです。そこには、過去・現在・未来という時間軸を貫く連続性と、自社の独自性を示す論理が求められます。
たとえば、新興企業がIPO(株式上場)を目指す際によく使われる「エクイティ・ストーリー(Equity Story)」という考え方があります。これは、投資家に対して、自社がどのような市場機会を捉えているのか、どのような強みや差別化要因を持っているのか、そしてどんな成長曲線を描いていくのかを、一貫性のあるメッセージとして伝える枠組みです。特に実績の少ない企業にとっては、将来への信頼を得るための不可欠なコミュニケーション手法となります。
一方で、経済産業省が今回打ち出した方針は、こうしたストーリー構築の手法を、ベンチャー企業に限らず、あらゆる企業——たとえば長い歴史と豊富な実績を持つ成熟企業にも広く適用しようとするものです。知名度のある老舗企業であっても、その規模や伝統に安住するのではなく、改めて自社の進むべき方向性を「言語化」し、従来のステークホルダーに加えて、新たな世代や市場との接点を築いていくことが求められています。これは、単なる戦略の整理ではなく、「共感」を呼び起こすための表現行為でもあるのです。
価値創造ストーリーを描くためには、まず自社のビジネスモデルの本質を深く掘り下げる必要があります。そして、自社ならではの強みや他社には真似できない競争優位性が、どのように社会的価値や顧客ニーズとつながっているのかを明確にする作業が必要です。つまり、経営戦略や企業のアイデンティティを「物語」として再構築することが、その出発点となります。
さらに重要なのは、このストーリーが「発信される」ことです。いかに優れた構想であっても、伝わらなければ意味を持ちません。だからこそ、誰に向けて、どのような言葉で語るのか——その届け方も含めて戦略的に考える必要があります。社内の従業員、外部の株主、取引先、顧客、地域社会。それぞれのステークホルダーに対して、自社の進もうとする道筋を納得感ある形で共有できることが、ストーリーの持つ真の価値だと言えるでしょう。つまり、話し手が物語の形で情報を伝えることで、聞き手の経験や理解は、話し手の意図により近づきやすくなる。価値創造ストーリーとは、単なる説明ではなく、相手の理解と共感を導くための、経営と対話の橋渡しの手段なのです。
次のパートでは、この価値創造ストーリーを実際にどのように構築していけばよいのか。そのステップや考え方を、より具体的に考察してみたいと思います。
実践編:価値創造ストーリーはどう構築するのか?
前回のパートでは、「価値創造ストーリー」が単なる説明資料ではなく、企業の成長や存在意義を一貫したメッセージとして言語化し、社内外に向けて発信するための、極めて重要な枠組みであることを確認しました。では、実際に企業は、どのようにしてそのストーリーを構築していけばよいのでしょうか。
まず着手すべきは、「時間軸」を意識して自社を多面的に見直すことです。すなわち、過去・現在・未来の3つの視点から、自社の歩みと今後のビジョンを丁寧に紐解いていくことが、ストーリー構築の出発点となります。
• 過去:創業の理念、沿革、これまでに培ってきた知見や社会的信用
• 現在:現在の市場環境の中でのポジション、強み、提供している価値
• 未来:顧客や社会に対して、これから果たしたい役割や目指す姿
このような時間軸の流れを一本の筋の通った物語として語れるかどうかが、ストーリーの説得力を左右します。加えて、構造として有効なのが「a.課題→b.解決→c.展望」というシンプルなストーリーフォーマットです。たとえば、自社が直面した環境変化や社会的課題(=a.課題)に対して、どのような打ち手や戦略(=b.解決)を講じてきたか。そして、その先にどのような未来図(=c.展望)を描いているかを、一本の流れとして表現することで、聞き手にとっても理解しやすく、共感が生まれやすくなります。
もう一つ、ストーリー構築に欠かせない視点が「誰に向けて語るのか(オーディエンス)」です。価値創造ストーリーは、社外の投資家や顧客に向けてだけでなく、社内の従業員、取引先、地域社会、さらには将来の人材に至るまで、多様なステークホルダーを対象としています。それぞれが抱く関心や価値観は異なるため、ベースとなるストーリーは一つでも、伝え方やフォーカスを適切に調整していくことが求められます。
1.自社の原点と存在意義を掘り起こす
創業時の想いや社会的背景、自社が果たしてきた役割などから、「なぜこの企業は存在するのか(Why)」を再発見し、言語化する。
2.現在のビジネスモデルと競争優位性を棚卸しする
どのような課題をどのように解決しているのか、他社にはない強みや独自性は何かを明確にする。
3.目指す未来像と社会への価値提供を描く
自社が今後、どのような社会的意義を持ち、どのように価値を創造し続けるかをストーリーに組み込む。
4.成長戦略とストーリーをつなぐ
中期経営計画などの戦略と物語の整合性を意識し、全体像を一本のストーリーとして組み立てる。
5.共感を得るための伝え方を設計する
言葉遣いやストーリーの形式(映像、社内報、プレゼン資料など)を工夫し、多様な相手に届く表現に仕上げる。
ビジネスにおけるストーリーテリングとは、単に語るだけではなく、「戦略的に語ること」であり、メッセージをより深く、より強く届けるための技法です。企業ブランディングやマーケティング、そして社内の一体感を高めるインターナルコミュニケーションにおいても、ストーリーは極めて強力なツールとなります。
魅力的なストーリーは、消費者や社員の心に届き、共感と信頼を育てます。そしてそれは、競争が激化する市場の中で、ブランドを明確に差別化する要素にもなり得ます。加えて、ストーリーテリングは単なる言葉の技術ではなく、「相手の価値観や経験に寄り添う姿勢」でもあります。誰に語るのか(オーディエンス)を理解し、その人たちの視点から見たときに、自社の物語がどう響くのか——この感度こそが、ストーリーの効果を左右します。
次の最終パートでは、この価値創造ストーリーが、企業文化やガバナンスにどのような影響を及ぼし、中長期的な企業価値の向上につながっていくのかを考えてみたいと思います。
展望編:価値創造ストーリーが企業にもたらすもの
ここまで3回にわたり、「価値創造ストーリー」の必要性やその構築方法について考えてきました。最終パートでは、このストーリーが企業にもたらすより深い意義、すなわち「内面への影響」に焦点を当ててみたいと思います。
まず第一に、価値創造ストーリーは、企業経営における「羅針盤」のような役割を果たします。ストーリーがあることで、経営判断の軸が明確になり、中長期の投資や事業選択にも一貫性が生まれます。それは、単なる戦略の骨組みではなく、組織全体の「意志」を言語化したものとも言えるでしょう。経営層から現場に至るまで、企業が向かう方向性を共通の言葉で共有できるようになれば、判断や行動の基準にもブレが生じにくくなります。
第二に、ストーリーは企業文化や組織行動にじわじわと影響を与えます。社員一人ひとりが、自社の存在意義や目指す姿に共感し、それを自分の言葉で語れるようになれば、仕事に対する主体性も高まります。また、採用や人材育成においても、「どのような未来に共感し、ともに歩む人を求めているのか」が明確になり、組織全体としての一体感が生まれやすくなります。部門や職種の違いを越えて、共通のストーリーが「対話の起点」となることもあるでしょう。
第三に、ストーリーは外部との信頼関係構築にも大きな力を発揮します。投資家にとっては、数字や実績だけでは語りきれない「未来への納得感」を与えるものであり、顧客にとっては、単なる商品やサービスの提供を超えた「ブランドの人格」として機能します。また、地域社会や行政、取引先といった広範なステークホルダーに対しても、ストーリーは透明性や誠実さの象徴として受け止められる可能性があります。
こうした内外への波及効果を通じて、価値創造ストーリーは、結果として企業価値の向上につながります。それは短期的な株価の上昇を指すのではなく、企業が社会においてどのような役割を担い、どのように信頼を積み重ねていくのかという「語られる価値」の形成です。言い換えれば、ストーリーを持つ企業とは、「自社の未来について、他者に語れる言葉を持っている企業」であるとも言えるでしょう。
そして今、求められているのは、こうした「語る力」を経営そのものに組み込んでいくことです。トップマネジメントが、自らの言葉で未来を描き、それを社内外に伝え、共感を呼び起こしながら進んでいく——そうした姿勢こそが、これからの経営において一層重要になっていくのではないでしょうか。
「価値創造ストーリー」は、一度つくって終わるものではなく、事業環境の変化や組織の成長とともに、繰り返し問い直され、磨き上げられていくべきものです。企業の“言葉”として、経営の中心に置かれたとき、ストーリーは真に「生きた戦略」となり、持続可能な成長への力強い原動力となっていくはずです。
