
世界農業遺産の地・山梨県甲州市勝沼町に、マリオットブランドのホテルが進出します。果物とワインの豊かな文化に、宿泊という滞在価値が加わることで、観光地としての勝沼は新たなステージへ。地域と世界がつながる、そのはじまりの物語。
フルーツ王国・山梨 ~世界農業遺産の地から
山梨県は、四方を山々に囲まれた自然豊かな地形と、清らかな水に恵まれた土地です。加えて、昼夜の寒暖差が大きい内陸性の気候は、果物の糖度を高めるのに理想的な条件を備えており、果樹栽培に非常に適した地域とされています。こうした自然環境を背景に、山梨では古くから果物づくりが営まれ、現在では桃やぶどう、すももをはじめとする果樹の一大産地として広く知られています。
春のサクランボに始まり、すももや桃、夏のぶどう(デラウェアやシャインマスカット)、そして秋には梨や甘柿と、山梨の果物は収穫期間も長く、四季折々の味覚が楽しめるのも魅力のひとつです。行楽シーズンになると、全国各地から観光客が果樹園を訪れ、自然の中で旬の果実を味わう体験を求めてにぎわいを見せます。中でも、すもも・もも・ぶどうは生産額が最も大きく、それぞれ全国1位の収穫量を誇っています(出所:農林水産省)。
この地域に固有の白ぶどう品種「甲州」は、平安時代にはすでに栽培されていたとも伝えられています。長い歴史のなかで築かれてきた果樹栽培の技術と、人々のたゆまぬ努力、そして自然との共生を重んじる営みが評価され、2017年には、山梨市・笛吹市・甲州市を含む峡東地域が、世界農業遺産(GIAHS:ジアス)に認定されました。「盆地に適した山梨の複合的果樹栽培システム」として、地域に根ざした農業文化が、未来に引き継がれるべき「人類共通の財産」として世界的に認められたのです。峡東地域の農村風景は、訪れる人々に強い印象を残します。急峻な山の斜面から、扇状地へと広がる畑には、季節ごとに異なる表情があり、春には「もも」や「すもも」の花が一面に咲き誇り、まるで桃源郷のような風景が広がります。夏には、棚仕立てで栽培されるぶどうの葉が天に向かって広がり、まるで緑の絨毯を仰ぎ見るような幻想的な空間が生まれます。西方に目を向ければ、雄大な南アルプスの稜線を望むことができ、特に陽が低くなる秋から冬にかけての日没時には、空と山が織りなす光景に、思わず言葉を失うほどの美しさを感じることもあります。
こうした自然と農業が織りなす景観は、単なる“果物の生産地”という役割を超えた、訪れる価値のある文化的風土そのものです。山梨の農村風景には、農業と自然、そして人々の暮らしが調和して生きている――そんな土地ならではの豊かさが息づいています。そして、その風景に触れた人々の心に、やさしく深く残る体験を届けてくれます。
日本ワインのふるさと・勝沼 ~日本を代表する地域ブランド「甲州」
甲府盆地の東端に位置する柏尾山(かしおさん)のふもとには、古来よりこの地を見守るように建つ一寺(いちじ)、大善寺があります。大善寺の本堂である薬師堂は、鎌倉時代後期に建てられたと伝えられ、現存する関東最古の木造建築のひとつとして国の重要文化財にも指定されています。その荘厳な薬師堂には「薬師三尊像」が安置されており、とりわけご開帳時に目にすることができる薬師如来像は、左手のひらにぶどうの房をのせた非常に珍しい姿をしています。この像の存在は、ぶどうがすでに700年以上も前から、この地で重要な意味を持っていたことを物語っています。さらに「甲州ぶどう」の起源は、約1300年前に遡るとする説もあり、勝沼の地が、古くからぶどうと深く結びついてきた土地であることがうかがえます。
この柏尾山を背に広がるのが、甲州市勝沼町です。ここは、まさに日本のワイン造りが企業として最初に根を下ろした町として知られており、その歴史は140年以上に及びます。近代的なワイン醸造のはじまりとともに、勝沼ではぶどう栽培とともにワイン文化も深まり、やがて周辺の甲州市、笛吹市、山梨市といった峡東地域全体に波及していきました。今ではこの一帯に、名だたるワイナリーが数多く集まり、ワインの本場・ヨーロッパとも肩を並べるような、個性豊かなワインづくりが行われています。
全国にあるワインメーカーのうち、およそ3分の1が山梨県に集中しており、その中でも約8割が峡東地域に立地しています(出所:帝国タイムズ「ワイン製造業者の経営実態調査」)。まさにこの地は、日本におけるワイン醸造の中心地であり、その規模と歴史、そして品質において、名実ともに“日本ワインの聖地”と呼ぶにふさわしい存在です。
「日本ワイン」とは、国内産のぶどうを100%使用し、日本国内で醸造されたワインを指します。近年では、世界的なワインコンクールにおいても高い評価を受けており、品質の高さとともに、日本ならではの繊細な味わいが注目を集めています。また、国内市場においても、数度のワインブームを経て消費が着実に拡大し、いまやワインは日本の食卓に日常的に取り入れられる存在となりつつあります。
なかでも、山梨県原産の白ぶどう「甲州」から醸造される白ワインは、地名をそのまま冠した「甲州ワイン」として全国に知られています。百貨店や専門店、レストランやホテルのワインリストにも数多く並び、その穏やかな酸味とすっきりとした味わいは、日本料理との相性の良さでも高く評価されています。こうした評価の積み重ねにより、甲州ワインは単なる地場産品ではなく、山梨の文化と誇りを体現する地域ブランドとして確固たる地位を築いています。
ワインは、もはや嗜好品の枠を超え、この地の社会・経済・文化に深く根を下ろした存在となっているのです。ぶどうとともに歩んできた勝沼、そして山梨の歴史と風土が、いま改めて国内外の注目を集め、新たなツーリズムや地域産業の可能性を広げようとしています。

観光トレンドの変化と、勝沼に広がる新たな可能性
日本国内の観光市場は、長引く新型コロナウイルスの影響により、かつてない規模の縮小を経験しました。しかし、感染状況の落ち着きとともに、徐々にではありますが、国内旅行需要は着実に回復の兆しを見せ始めています。その一方で、旅行の「スタイル」にはコロナ前と明らかな変化が生まれています。旅行者の目的や移動距離、交通手段、そして旅の楽しみ方そのものが多様化し、「遠くよりも、近くへ」という意識が強まりました。これが、いま注目されている「マイクロツーリズム」です。遠方や海外への旅に代わって、自宅から近いエリアで自然や食、文化を深く味わう旅の形が、現代の旅行スタイルとして広がっています。
こうした旅行ニーズの変化を捉えるため、各都道府県では毎年「観光入込客統計調査」を実施し、観光地ごとの来訪者数やトレンドを時系列で追跡しています。山梨県が公表した令和4年(2022年)の調査結果は、観光の回復状況と新しい需要の高まりを如実に映し出しており、とりわけ峡東地域の勝沼エリアにおいては、特筆すべき回復傾向が見られました。
山梨県全体の観光入り込み客数は、前年と比べて149%と大幅な回復を見せましたが、その中でも甲州市は181.9%と県内市町村トップの伸び率を記録。さらに細かく見ていくと、勝沼ぶどう郷周辺の観測地点では、前年対比192%という驚異的な数値を示し、県内全域でも最も高い回復率を誇っています。
このような急速な観光回復の背景には、いくつかの明確な要因があると考えられます。まず、山梨県は首都圏から車でわずか90分という抜群のアクセス性を持ち、なかでも勝沼インターチェンジ周辺には、観光果樹園や直売所、ワイナリーなど、魅力的なスポットがコンパクトに集積しています。こうした環境が、近場で充実した旅を楽しみたいというマイクロツーリズムのニーズとぴたりと重なっているのです。
また、近年の「シャインマスカットブーム」も勝沼エリアの人気を後押ししています。テレビやSNSを通じてその魅力が全国的に認知され、家族連れを中心に、果物狩りや直売を目的とした日帰り旅行やバスツアーの需要が増加。観光果樹園の多い勝沼は、こうした訪問先としてますます注目されるようになりました。さらに注目すべきは、「ガストロノミーツーリズム」という新たな観光トレンドです。これは、その土地の食文化や歴史、風土に根ざした食体験を目的とする旅のスタイルであり、地元の農産物やワイン、郷土料理を味わいながら、地域の暮らしや文化に触れる旅を意味します。山梨県峡東地域は、このガストロノミーツーリズムの理想的な舞台といえるでしょう。
とくに勝沼は、四季折々の果実を楽しめる農園と、地元産ぶどうから造られる多彩なワインが密接に結びつき、訪れる人に五感で味わう深い体験を提供してくれます。東京から1時間半の距離にあるとは思えない、ゆたかな自然と食の世界が広がるこの地は、いま、日常を離れて“本物の時間”を過ごせる場所として、脚光を浴び始めているのです。
こうした観光動向の中で、これまで宿泊施設が極めて限られていた勝沼エリアに、マリオットブランドのホテルが進出するというニュースは、まさに時代の転換点といえる出来事です。次のパートでは、このホテル誘致が地域にもたらす意味と価値について、考えてみたいと思います。
マリオットの進出が拓く、勝沼の新たなステージ
これまで、山梨県甲州市、特に勝沼町は、果樹やワインをはじめとする魅力的な観光資源に恵まれながらも、宿泊施設の整備が十分ではありませんでした。観光農園やワイナリー、地元飲食店などへの日帰り客は多い一方で、「滞在型観光」へと発展させるためのインフラが不足していたのが現状です。旅の目的地としての力を持ちながら、“泊まる場所がない”ことが、地域の可能性を制約してきたとも言えるでしょう。
そのような中、マリオットブランドのホテルが勝沼に進出するというニュースは、この地にとって歴史的な意味を持つ出来事です。首都圏から90分という立地の優位性と、豊かな農産物やワイン文化を活かした観光資源に対して、世界有数のホテルブランドが大きな価値を見出したということは、この地域がマイクロツーリズムのデスティネーションとして、国際的にも評価され始めている証でもあります。
マリオット・インターナショナルは、世界130以上の国と地域でホテルを展開する、ホスピタリティ業界のトップブランドです。そのブランドが持つ発信力と集客力は、単なる「宿泊施設」の枠を超え、地域の観光地としての存在感を格段に高めてくれることが期待されます。勝沼に新たな宿泊拠点が誕生することで、これまで日帰りが主流だった旅行スタイルが、“泊まって楽しむ旅”へと変化していくでしょう。
滞在することでこそ体験できることは、勝沼には数多くあります。ワイナリーでの夕暮れの試飲体験、地元食材を使ったディナー、夜の星空観察や早朝の果樹園散策など、時間をかけて深く味わうことで、土地の魅力はさらに輝きを増します。マリオットブランドがもたらす上質な滞在環境は、こうした体験の価値を高め、勝沼全体を「訪れる場所」から「記憶に残る場所」へと変えていくはずです。
また、ホテルの進出は地域経済にも多くの恩恵をもたらします。建設・運営に伴う直接的な雇用創出はもちろんのこと、食材や備品の調達、交通や観光案内など、地元の事業者との連携が進むことで、地域全体の経済活動が活性化します。とくに、ホテルが提供する“地元発信型の体験”が増えることで、勝沼の文化や暮らしがより多くの人に伝わり、地域のアイデンティティそのものが観光資源として評価されるようになります。
つまり、ホテルの誘致は単なるハード整備ではなく、地域全体の魅力を引き出し、外へと届ける“舞台装置”のような役割を担うものです。滞在を通じて文化を深く味わう観光地へと進化すること。それこそが、勝沼が次のステージへと踏み出すための鍵であり、今回のマリオット誘致の真の意義だと言えるのではないでしょうか。

出所:“Society”, Melbourne, Australia
世界農業遺産のワインリゾート――文化と風土が響き合う、新たな甲州勝沼の物語
かつて日本で初めて本格的なワイン醸造が企業として始まった町・勝沼。甲州ぶどうという歴史ある果実に支えられ、農業とともに育ってきたこの地は、今また、新たな時代の入り口に立っています。マリオットブランドのホテル進出は、単なる宿泊施設の整備ではありません。それは、長年にわたってこの地に培われてきた果樹農業、ワイン文化、地域コミュニティ、そして風景そのものを観光資源として再編集し、国内外に向けて発信する「起爆剤」となるものです。
これまで、甲州市・勝沼町を訪れる多くの観光客は、日帰りで果物狩りやワイナリーを巡るスタイルが主流でした。しかし、宿泊施設の誕生により、夕暮れ時のぶどう畑の美しさや、夜のワイナリーの静けさ、地元の食材が並ぶディナーコース、そして早朝の農村風景――これまで見過ごされていた時間が、新たな魅力として旅の一部となることができます。そして、その「時間を楽しむ旅」の積み重ねこそが、地域の文化や歴史にふれる体験を生み、訪れる人の記憶に深く刻まれるのです。
勝沼には、語るべき物語が豊富にあります。山の斜面に広がる果樹園、甲州ぶどうの起源にまつわる伝承、地域に根ざしたワインづくりの哲学、農家の暮らしと誇り。そうした一つひとつが、宿泊を伴う旅の中で初めて、丁寧に味わうことができる価値ある「文化資源」になります。さらに、ホテルの存在は、地域経済にも波及的な変化をもたらします。観光の定着化により、農産物や地場産品の需要が高まり、新たな商品開発や直売の機会が生まれます。観光ガイドや体験プログラム、農業との連携企画など、新たなサービス産業も芽吹いていくでしょう。地域内でお金と人が循環し、地元の雇用や生産が支えられていく――そんな持続可能な地域モデルの実現が期待されます。そして何より、このプロジェクトの核心は、「地域の人々自身が自らの魅力を再発見し、誇りを取り戻すこと」にあります。外からの視線をきっかけに、内にある宝に気づき、守り、育て、伝えていく。ホテルの建設は、その第一歩に過ぎません。地域と訪問者、外と内が響き合いながら、新しい勝沼の価値が形づくられていく未来が、今まさに始まろうとしています。
“世界農業遺産のワインリゾート”――ワインと果実の里・甲州勝沼が、世界に誇る「滞在型ガストロノミーツーリズムの聖地」として名を連ねる日も、きっとそう遠くはないでしょう。この地を訪れた人々が、ぶどうの香りに包まれながら、土地の記憶に触れ、味わい、深く満たされて帰っていく。そんな未来を、私たちは静かに、しかし確かな熱量をもって、描き始めています。
