
飛行機に乗るたび、私たちは空の安全を当然のように信じています。けれど、その信頼の裏側にある「航空保険」という仕組みを知る人は少ないでしょう。かつて航空会社の経営に携わった経験を基に、保険交渉で訪れたロンドンの現場や、世界の航空保険市場についてご紹介します。
そもそも「航空保険」って何だろう?
皆さんは、「航空保険」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?あまり日常生活ではなじみのない言葉かもしれません。でも、実は皆さんが飛行機に乗るとき、その“空の旅”を陰で支えている、とても重要な仕組みなのです。
「航空保険」とは、その名のとおり、航空機の運航にともなうさまざまなリスクに備える保険のことです。これは航空会社が加入するもので、もしも事故が起きたときに備えて、多くの損害をカバーするために存在しています。飛行機そのものの損害はもちろん、乗客や貨物、さらには飛行機の外で発生する損害までもが補償の対象になる場合があります。
保険の対象は大きく分けて三つ──①航空機本体、②航空機に乗っている人たち、③そして周囲の第三者(たとえば、飛行場の施設や近隣の建物など)です。これらのリスクに備えるため、航空会社は複数の保険を組み合わせて加入しています。また、戦争やテロなど、極めて異常な状況に備えた特別な保険も存在しています。つまり、航空保険とは「空を飛ぶことそのものに内在するリスク」をトータルにカバーする、総合的な保険なのです。以下に、代表的な航空保険の種類を簡単に紹介してみましょう。
• 機体保険(Hull)
航空機に生じた突発的な事故やトラブルによる損害を補償します。たとえば、着陸時の接地ミスによる損傷などが対象になります。
• 乗客賠償責任保険(Passenger Liability)
乗客がけがをしたり、命を落としたりした場合に、航空会社が負う賠償責任を補償します。手荷物の損傷や紛失も含まれる場合があります。
• 第三者賠償責任保険(Third Party Liability)
飛行機の墜落や衝突により、空港設備や地上の建物、人など第三者に損害を与えた際の補償です。
• 貨物賠償責任保険(Freight Legal Liability)
貨物機や旅客機で輸送中の貨物が損傷した場合に、航空会社が負う責任を補償します。
• 航空機装備品・予備部品保険(Spare Parts)
機体に取り付けられる部品や、予備のエンジン、着陸脚(ランディングギア)、操縦装置などに関する損害を補償します。部品単位での高額な損害に備えるものです。
• 機体戦争保険(Hull War)
戦争、ハイジャック、テロなど、通常の保険では対象外となるリスクを補償します。特に国際情勢が不安定な地域を飛行する場合に不可欠な保険です。
航空保険の世界には、もう一つ大きな特徴があります。それは、「リスクがあまりにも巨大すぎて、1社だけでは引き受けられない」という点です。たとえば、1機数百億円の旅客機が墜落した場合、その損害額は一瞬で数百億から数千億円にのぼることもあります。そこで、複数の保険会社が分担してリスクを引き受ける「プール方式」が使われます。
日本でも、複数の保険会社が連携する「航空保険プール」が存在しますが、それでもすべてをカバーしきれない場合は、海外の再保険会社が登場します。特にロンドンは、世界の保険市場の中心地として知られており、ロイズ(Lloyd’s of London)などが保険市場を形成しています。世界的な投資家ウォーレン・バフェットが率いる「バークシャー・ハサウェイ」は、航空保険の再保険分野でも大きな存在感を放っています。多くの人は彼の名前を聞いて「株の投資家」という印象を持っているかもしれませんが、実は彼のビジネスの柱の一つが、こうした保険・再保険分野なのです。
航空保険の保険料率は、このような国際的な保険市場における交渉によって決まり、航空会社の実績や信頼、運航体制、安全管理のレベルなどが保険料に大きく影響してきます。つまり、単なる事故率だけでなく、航空会社の「信用力」も保険料を左右する大事な要素なのです。次章では、こうした航空保険がどのような市場で取引されているのか、その国際的な仕組みを見ていきましょう。
なぜ航空保険は「世界市場」で決まるのか?
航空保険には、大きな特徴があります。それは、一つの国や一つの保険会社だけではカバーしきれないほど、リスクが巨大だということです。もしも大型旅客機が事故を起こし、人的被害や物的損害が発生した場合、その補償額は数百億円から数千億円規模に達することもあります。このような巨大なリスクに対応するため、航空保険の世界では、「再保険」という仕組みが欠かせません。再保険とは、保険会社がさらに別の保険会社に保険をかけるようなイメージです。つまり、航空会社 → 保険会社 → 再保険会社という、多層的な構造になっており、世界中の保険会社と再保険会社がネットワークを組んで、リスクを分担し合っているのです。
また、日本国内でも複数の保険会社が共同で引き受ける「航空保険プール」という仕組みが使われていますが、それだけでは十分ではありません。最終的には、ロンドンやスイスなど、世界の再保険市場の動向が、保険料や契約条件に大きく影響を与えるのです。これが「航空保険の国際性」と呼ばれる理由です。
主なプレイヤーたち──航空保険を支える4つの柱
この世界規模の保険ネットワークを動かすのは、以下の4つのプレイヤーです。
• 航空会社
飛行機を運航する主体として、自社の安全対策だけではカバーできない「万が一」に備えて保険に加入します。保険料は、財務上の大きなコスト要因でもあり、リスク管理そのものが経営課題になります。
• 再保険会社
保険会社からリスクの一部を引き受ける存在で、「保険会社のための保険会社」とも呼ばれます。代表的な再保険会社には、ミュンヘン再保険(ドイツ)、スイス再保険(スイス)、バークシャー・ハサウェイ(アメリカ)などがあり、バークシャーは再保険部門が航空市場で強い影響力を持っています。
• ブローカー(保険仲介業者)
航空会社と保険会社、再保険会社の間に立ち、契約の設計や調整、交渉を支援します。巨大で複雑な航空保険の設計において、ブローカーの存在は不可欠です。エーオン(Aon)やマーシュ(Marsh)といった世界的ブローカーがこの分野をリードしています。
• 規制当局
保険市場の信頼性と公正性を担保する役割を担います。米国では全米保険監督官協会(NAIC)、ヨーロッパでは欧州保険年金監督局(EIOPA)などが、保険商品の適正性や財務健全性を監督しています。
航空保険は「オーダーメイド」
自動車保険や火災保険のように、あらかじめ決まったプランが用意されている保険とは異なり、航空保険は一件ごとに交渉して作る「テーラーメイド型」です。航空会社の保有機数、就航している国や地域、パイロットの経験、安全管理体制、そして過去の事故歴など、非常に多くの要素が総合的に評価されて、補償内容や保険料が決まっていきます。さらに、再保険会社同士の競争も激しく、価格や条件の交渉は毎年のように繰り返されます。つまり、「いかに保険料を下げ、補償を確保できるか」が、航空会社の実力の一部でもあるのです。
保険料の上下を左右する「損害率」と世界情勢
航空保険の保険料は、航空会社ごとの要素だけでなく、世界全体の事故率や経済・地政学リスクにも大きく影響を受けます。保険業界には「損害率」という指標があります。これは、保険会社が支払った保険金の総額を、受け取った保険料の総額で割ったものです。
• 損害率が低い=保険会社にとって利益が出る → 保険料は下がる傾向
• 損害率が高い=支払いが多くなっている → 保険料は上昇傾向
たとえば、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件では、航空機を使った攻撃により約3,000人が命を落とし、世界中で莫大な経済的損失が発生しました。これを機に、航空保険市場は一変します。翌年の保険料はなんと「58倍」に跳ね上がった(2002年10月23日・日本経済新聞)という記録が残っています。このように、航空保険市場は非常に「ボラティリティ(変動性)」が高い市場です。世界のどこかで事故や戦争が起きれば、翌年の保険料は一斉に変動します。航空会社は、この複雑で予測の難しい市場において、リスクを読み、交渉し、自社の経営を守っていかなければなりません。
まさに航空保険は単なるコストではなく、企業の命運を左右する「戦略的リスク管理」の一つなのです。

ロイズの鐘とシャンパン──世界の保険と交渉のリアル
ロンドンの金融街“シティ”の中心に、ひときわ目を引く近未来的な建物があります。水道管、空調設備、電気線、そしてエレベーターまでもが建物の外側にむき出しになった大胆なデザイン──それが、世界最大級の保険市場「ロイズ(Lloyd’s of London)」の本部ビルです。SF映画のセットのようなその外観を初めて目にしたとき、私は思わず息を呑みました。しかし、もっとも印象に残っているのは建物ではありません。ロイズのアンダーライティング・ルーム(Underwriting Room)、すなわち保険の引受が行われる象徴的な空間に立つと、そこには一冊の大きな帳簿と一つの古びた鐘がひっそりと置かれていました。
その帳簿の名は、「ロス・ブック(The Loss Book)」。1774年の導入以来、ロイズが支払ったすべての沈没船に関する損失記録が、今なお羽ペンとインクで丁寧に、手書きで記され続けています。保険という仕組みが、単なる数字や契約ではなく、“記憶と証”として継承されている場所──それがロイズです。そして、傍らに静かに置かれているのが、「ルティーヌ号の鐘(Lutine Bell)」。1799年に沈没した英国貨物船「ルティーヌ号」から引き揚げられたこの鐘は、一度鳴れば“悪い知らせ”(沈没)、二度鳴れば“良い知らせ”(無事の帰港)を意味するという慣習があります。その音が鳴り響くたび、アンダーライティング・ルームには、保険という行為の持つ厳粛さと覚悟が静かに満ちていくのでしょう。この「ロス・ブック」と「ルティーヌ号の鐘」は、まさに保険の本質──「いざというときに備える」という人類の知恵を、長い歴史の重みとともに、いまも静かに伝え続けているのです。
ロイズは一つの保険会社ではなく、保険引受人(アンダーライター)たちが集まる“市場”そのものです。建物は視察可能で、大学や保険関係者に限定されますが、ロイズの会員や提携先の紹介があれば一般の見学も可能です。もしロンドンに行く機会があれば、ぜひ足を運んでみてほしい場所の一つです。
私が航空会社の経営に携わっていたころ、航空保険料の見直しのため、ロンドンを含むヨーロッパの再保険会社やブローカーを訪問することになりました。日本の主幹事保険会社とともに、ロンドン、パリ、ミュンヘンの各都市にある保険会社・再保険会社を5日間で約10か所訪問する、まさに“強行軍”のビジネスツアーでした。目的は明確でした。「事故歴がなく、定時運航率も高いのに、なぜこれほど高い保険料が課されるのか?」その問いに対し、新興航空会社ゆえにリスクが高いというレッテルを貼られていた私たちは、現地で安全性・運航実績・成長可能性を直接訴え、評価の見直しを働きかける必要があったのです。
印象的だったのは、どの訪問先でもまず通されるのが応接ホワイエであったことです。そして、そこでは必ずシャンパンが出てきます。「シャンパンにしますか?それとも……シャンパンにしますか?」と冗談めかして尋ねられ、選択肢は一択のみ。軽食やシャンパンを片手に、初対面の人々と和やかな雰囲気で談笑する──ヨーロッパの保険交渉は、形式ばらず、“人となり”を見るところから始まるのです。しかし、正直に言えば、私は毎回提供されるシャンパンに少し困っていました。飲めないわけではないのですが、数杯飲めば当然頭がぼんやりします。午後の本格的なプレゼンを控えて、眠気と酔いとの戦いになってしまうのです。
特に印象深かったのが、ドイツ・ミュンヘンのある再保険会社の訪問です。まるで宮殿のような格式ある本社ビルに招かれ、その中に併設された星付きレストランのようなダイニングルームで昼食をとりながらのビジネスミーティング。ナイフとフォークを動かしながら、自社の経営内容を説明する──そんな“ながらプレゼン”は、日本の会議文化とはまったく異なるものでした。
今思えば、そこで評価されていたのは、話の中身だけではなく、経営者としての立ち振る舞いや、国際的なビジネス環境への適応力だったのかもしれません。「この人は、本当にこの会社の“顔”たり得る人物なのか?」そうした目線で見られていたのだと、今なら思います。当時の私はまだ経営の経験も浅く、そんな視点で自分を振り返る余裕はありませんでした。ですが、このヨーロッパ出張を通して、保険の交渉とは数字や資料だけではなく、「信頼」と「人間性」が問われる場であることを、身をもって学びました。
エア・インディア墜落事故と、航空保険のこれから
2025年6月12日、世界の航空業界を震撼させる事故が発生しました。インド西部のアーメダバード空港を午後1時半すぎに離陸した、エア・インディアのボーイング787型機が、空港の敷地外にあるビル群の一角へ墜落したのです。機内には乗員・乗客あわせて242人が搭乗しており、報道によればわずか1名の生存者を除き、すべての命が失われたといいます。事故を起こした787型機(通称ドリームライナー)は、米ボーイング社が誇る最新鋭の中型機で、燃費性能と快適性を両立させた機体として世界中の航空会社が導入を進めていました。死亡事故の前例がなかったこの機材で、まさかの大惨事が発生したことは、世界中の航空関係者にとって大きな衝撃でした。事故後、エア・インディアを傘下に持つタタ・グループの会長は、被害者とその家族への全面的な支援を約束し、各国の保険・航空当局と連携した調査が始まりました。
インドの経済紙『ザ・エコノミック・タイムス』の報道によれば、この事故により発生する保険金請求額はインドにおいて過去最大級となる見込みで、その総額は1億2,000万ドル(約190億円)を超えると推定されています。
• 機体の損失:約8,000万ドル(約125億円)
• 乗客への賠償責任:3,000万〜1億ドル(約47億〜157億円)
中には企業経営者や海外居住の富裕層も搭乗していたとされ、補償額はさらに膨らむ可能性があります。主幹事保険会社はタタAIG(Tata AIG General Insurance)で、リスクの大部分は、ロイズ・オブ・ロンドンを含む世界的な再保険会社によって引き受けられています。このような規模の事故は、単なる「一社の損失」にとどまらず、航空保険市場全体の料率に波及する可能性が極めて高いと考えられています。
航空保険市場の特性として、すでに述べたとおり極めてボラティリティ(変動性)が高いという点があります。損害率が一定水準を超えれば、保険会社や再保険会社の「引受意欲」が一気に冷え込み、翌年以降の保険料は急騰することになります。このような現象は、航空会社の経営にとって重大な打撃です。航空機の運航は年間を通してのコスト構造が非常に繊細であり、保険料の急変は路線維持や機材導入、乗務員の訓練計画にまで影響を与えます。
一方で、こうしたボラティリティの根底には、リスクエクスポージャーの精緻な評価が存在しています。どの路線を、どのような頻度で、どの機材で運航し、整備・安全管理をどのように行っているか──こうした運航そのものの“質”が、航空会社ごとの保険料を左右しているのです。ここで、近年期待が高まっているのが、AI(人工知能)やビッグデータを活用したリスク分析の高度化です。たとえば、次のような技術革新が今後の航空保険に影響を与えると見られています。
• 運航実績データのリアルタイム分析による、保険料のダイナミック・プライシング(たとえば、変数に応じて価格を自動的に調整する「変動料金制」)
• 機体センサーによる安全性スコアの自動化された評価
• 異常気象や地政学リスクの予測を織り込んだ保険商品の柔軟な設計
これらが実現すれば、航空会社ごとの努力や安全管理への投資が、より明確に保険料に反映され、“公正な保険市場”の実現につながっていくことでしょう。
